遊心窯 松崎健
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心の表現
松崎 健
父が民芸の収集家だったこともあって幼いころから、身の回りに江戸時代の物や、明治時代の物がありました。よく父に江戸時代の瀬戸物や錦絵など見せられて、父の話を聞いていました。父は明治三十年(1897年)の生れですから、特に明治時代は自分の目で見ていたこともあって、話に熱が入ったものでした。 私が中学生の時、時々骨董の市に連れて行ってもらい、売り買いの様子を見て興奮したものでした。そんな父の影響もあって、焼き物に興味を持ったのは十五.六才の頃で、高校の美術の授業で轆轤を挽いたのが陶芸の始まりです。 高校には陶芸の先生はいませんでしたが、電気轆轤が二台とガス窯の小さいのがありました。私にとっては格好の遊び道具で、先生はいないし陶芸のクラスは私を含めて三人でしたから、やりたい放題、陶芸を楽しめました。このころに陶芸の基礎が出来たような気がします。 大学は農芸化学に進むはずでしたが、陶芸の授業がきっかけで美術の先生に芸術科を受験しないかと進められ、私も物を作ることが好きでしたし、化学記号は好きではありませんでしたから、渡りに船で進路を芸術科に変えることにしました。 高校三年になって美術の先生が職員会議に諮って頂き、私の理科系の授業を全部美術の授業に変えてくれました。時代も良かったのでしょうが、その後、私のような生徒はいなかったそうです。
それからは一日中美術教室で木炭デッサン、鉛筆デッサン、そして下級生の陶芸の指導や出欠はもちろん、評価までもやっていました。そのころは一クラス十人ぐらいいましたから、三学年で二~三十人の面倒を見ていました。 私は美術の先生の助言で進路を変えて、玉川大学芸術科に入学して陶芸を専攻ました。 そのころから手に職をつけることを考えていた私は、授業の課題は早々に終わらせて、湯呑みを一時間に何個挽けるかを競争して、二十個以上は挽いていました。 轆轤の基礎は大学一年の時には身について、これが後になって役立つことになりました。 二年生のときには自分の将来を決めました。父の知り合いでもあった島岡達三先生の下で修行をすることです。そのころ島岡先生は食器の魔術師と言われ、多種多彩の食器を創っていました。シャープな形に繊細な縄文象嵌これにはあこがれたものです。 大学を卒業してすぐ島岡先生を訪ねて行き弟子入りをお願いして、四月から三年間お世話になることになりました。
弟子は、島岡先生の身の回りのお世話や、掃除、運転手、マッサ-ジが主な仕事でした。 島岡先生は週三回指圧を受けていまして、島岡先生の一言で、その指圧の先生に指圧を週三回習うことになり、初めは親指の間接が痛くてまともに押すことが出来ませんでしたが、一ヶ月もすると一時間の全身コースが出来るようになりました。週三回はプロが指圧して、間の三日は私が指圧するようになりました。 この指圧を覚えたことで先生がお出かけになる時にどこにでもお供するようになりました。 個展のときはもちろん、海外のワークショップなどにもお供いたしました。 私は技術を覚えるより、陶芸に対する考え方とか、物を創るときの姿勢、哲学的なものが大切だと島岡先生を見て感じていました。これらを学ぶのに指圧が大いに役に立ちました。
弟子が先生の仕事中に質問することはお仕事の邪魔をすることになりますので、指圧中をうまく使わせていただき、いろいろお話して頂きました。そしてカナダ、アメリカのワークショップに九十日お供したときが、三年間の年期が終わる年でした。私は三年では物足りずに延長をお願いしようと思っていたところでしたので、指圧をしながらお願いしたことを覚えています。島岡先生も指圧が出来る弟子がいたほうが、何かと便利だとお思いになったのでしょう、二年の延長を許して下さいました。 この二年間を、オリジナルの食器作りや、文様の研究や白化粧泥の試験をしました。 独立したときには、食器の形、文様、稚拙な物ではありましたが、自分の物が出来ていました。この間に創りあげた文様が、呉須釉鷺文、白掛線文、鐵地刷毛目文 青地刷毛目文、葡萄文、兎文、筒描流水文、その他、オリジナルの文様を創りました。二年で創り上げたこれらの食器、文様が独立して十五年間を支えることになりました。
独立して十三年頃に、ある外国の美術関係者の人に呉須釉鷺文壷を見て、島岡達三のコピーと言われことがありました。私としてはオリジナルのものと考えていましたが、ほかの疑問が、頭の中を回り始めました。島岡先生も呉須釉に草花文の壷があります。同じような形に呉須釉で先生は草花文で、私は鷺文、文様が変われば、作者が変わることになる。文様は自分のオリジナルであっても、釉薬、かたちが似ていれば、これは明らかに私の負けである事を意味する。
それから数年、新しい仕事のことばかりを考えていた私は、十五年の節目に今までのもの全てを捨てる決意をしました。当然、民芸、益子、今までのオリジナルのもの全て。 私の新しい仕事のエネルギーとなったのは桃山時代の織部です。武将古田織部の思想を、取り入れることにしました。織部釉そのものではなく織部の思想と様式です。当時、織部とは黒、志野、鳴海織部これら全てを織部と称されていました。それに三角が基本にデホルメされた茶器、花生などが織部様式です。そして私は焼き締めから黄瀬戸、黒、志野までを織部として捉えてきました。
将来、薪窯がほしいと思っていましたから、この機会に思い切って両焚きの窯を作ることにしました。窯というものは自分のオリジナルでなければ、わたしにとって何の意味もないと考えています。穴窯を焼くためには、焼きかたに個性が無ければ焼き上がりが、誰が焼いても同じになってしまいます。何が焼きたいのか、どんな焼き方をしたいのか、そのためにはどんな土が良いのか。それから土探しが始まります。火に強い土、火に弱い土、腰のある土、腰の無い土、個性の強い土を探します。それらの原土の性質を見極めて、自分の性格と土の個性との折り合いを付けていかなくてはなりません。土が決まれば物の良し悪しの六割は決まります。残りの四割が焼きであり、造形です。 陶芸は土もみ三年、轆轤十年と言って技術を大事にされています、私も蹴轆轤で二十年やってきましたが、その轆轤から離れて心の中のものを、一つ一つ手捏ねで創ることにしました。創りたい思いが先で、それに必要な技術は後から付いてくると云う考え方に変わりました。もちろん今までの経験があってのことですが・・・・・。
一つの仕事を完成させるためには、十年は掛かります。私が仕事を変えてから、窯変が表現の一つとなり、十五年かけて窯変が私の意匠となりました。 今日までに三十年の積み重ねがあって、さらに一昨年また新しい穴窯を造り、十年、十五年かけて、素材の美を炎で新たな表現をしたいと考えています。個性の強い土と真っ向からぶつかり合い、焼いて、焼いて、焼き倒したい気持ちが私の本音ですが、何処かからか、「サラッと焼いてみたらどうだ・・・」と、ささやく声が聞こえてきそうな気がします。 科学が進んで、どんなものでも焼ける時代になってきたとしても、素材の美しさを表現するのに科学だけで表すことは出来ません。そこに創り手の心の投影が無かったら、人に感動を与えることは出来ません。 私は物を創ることは、心を表現することだと思います。