松崎 健の軌跡と挑戦

 逃げ場のないような暑さをいまだに肌が記憶する今年の夏もまた益子では幾つもの窯が焚かれていた。それはここ百数十年余り、この地方では変わることなく続いてきた光景である。しかし益子は大きく変貌した。ちょうど百年前に生まれた浜田庄司が益子に来たのが七十年前。益子は浜田によって世界でも最も知られる日本の窯業地となった。浜田庄司は結果として彼の作風と手本とする「民芸益子焼」を生み出したが、彼自身は益子で最初の創造的な陶芸作家となったのである。そして益子は今、「民芸益子焼」の町である一方、多彩な陶芸作家の住む町でもある。
 浜田庄司が創造的な陶芸作家であると同時に「民芸益子焼」の祖でもあるのは、彼が益子の素朴な土と釉薬をその作陶の中心に据えたからに他ならない。それは、美学者柳宗悦とともに歩んだ民芸運動の根幹を成す思想の実践だった。しかしこの浜田庄司に師事することは、「民芸益子焼」のような浜田の模倣は許されない。陶芸作家としての姿勢をこそ踏襲しなければならないのだ。浜田亡き今日の益子を代表する島岡達三はいうまでもなく浜田の高弟であり、彼もまた師のように益子の陶材を中心に据えながらも、創造的な陶芸を標榜して象嵌縄文という独自の世界を築いたのである。浜田庄司の遠大な陶芸世界に取り込まれそうになりながら、そこから脱皮することの困難はいかばかりであったろう。
 島岡達三に学んだ松崎健は、すなわち浜田庄司、島岡達三と続く益子陶芸作家の中心軸に位置する。それは師が乗り越えた大きな試練に同じく立ち向かわねばならないことを意味するのである。そでに四半世紀近い陶歴のなかで松崎は益子の陶材のさまざまな可能性に挑み、それぞれに高い完成度を示してきた。益子の厚手の器を柔らかく豊かに包む並白や呉須釉艶やかな安定感は島岡一門の益子陶材への真摯な取組方の一端だろう。その一方で松崎の個性は安定の益子を突き破ろうとする意欲をみなぎらせる。鉄地に白泥の刷毛目を盛り上げる荒々しい作風あたりから、彼は土と釉薬とが織りなす陶芸の普遍のダイナミズムへとその志向を強めて行ったように思われる。それは薪窯の新設による焼締めや灰被りの大作作りに象徴されていた。
 そして、昨年の個展から続く織部と今回新たに登場する志野。これらは焼締めや灰被りが益子の土での試みだったのと違って、美濃の成熟された陶材を用いての真っ向からの伝統への挑戦である。もはや益子の陶材の強みも弱みも、その歴史も応援の手が届かない。ただ、益子の土で培った松崎健の抑えた激しさは織部や志野の美学に通底するのか、早くも高い完成度を獲得している。しかし、立ち向かうものの奥はあまりにも深い。その深め方の行方に注目したい。
(青木宏・栃木県立美術館主任学芸員)
土 自らの表現

 「物を創ることは楽しいでしょう。」とよく聞かれることがある。そんな時、「楽しいですね。」と答えてしまうが、陶を創るということは、土に正面から立ち向かうことだから、本当は楽しいなんて感情は微塵もない。一寸気を抜けば土に押し潰されそうになる、そんな重苦しい空気が細工場の中で続くのだ。
 土の塊を、花びら一枚一枚を扱うように丹念にもんでいるうちに、気持ちがだんだん落ち着いてきて、土が手に馴染むようになる。そこで改めて土と向かい合う。轆轤に乗せた土の塊を、静かに挽き上げるとなんとも言えぬ心地良い音がする。そんな静寂の中でまた、土と一対一の世界に入っていく…。そして窯に入れて焼くわけだが焼物にとってそれが一番大事な作業である。良くするも悪くするも窯焚きしだいなのだ。これだけは回数をかさねれば上手になるのもではなく、感覚のよさだけが必要なのである。
 今回の志野も幾度となく失敗を繰り返したが、その度に作品の一つ一つが“焼物とは何か”を教えてくれた。そして焼くことに一層執念を燃やすことが出来るようになった。
 土を見極めんがために限界まで焼く。それが失敗に繋がるとわかっていても、土を知るためにはそれを避けることはできない。ぎりぎりのところで土は自ら表現してくれる気がする。私は、それを見定めたいのである。
 物を創ることの楽しみではなく、土と窯に立ち向かう姿勢こそが大事であるように思う。
平成六年十一月
松崎 健
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